2.多様化とチャレンジの時代


楽友会では、オーケストラ付きの宗教曲をメインとし、海外の世俗曲や邦人曲などを演奏する定期演奏会が定着していましたが、この伝統を受け継ぎつつ、多様な演奏スタイルを求める新たな活動が始まったのはこの時期です。

 

1982年と1983年の定期演奏会では牧野正人氏、1984年には中村邦男氏が客演指揮者として招致されました。中でも牧野氏の曲では、歌う楽しさをもっとストレートに聴衆に伝えたい、との思いから、私服でステージに立ち体を動かす「振り付き」の曲を演奏しました。後に楽友会の十八番となる「シアターピース」へ発展する原点になったといえるかもしれません。

 

1984年にはさらに新しい取り組みとして長野県小諸市への演奏旅行(当時「行脚」と呼称)を行い、小学校を訪問して演奏を披露しました。工夫を凝らした選曲とコミカルな振り付けで小学生たちの拍手喝采を浴び、歌の楽しさが伝わる喜びを再認識する貴重な体験となりました。同様の試みは後に新潟への演奏旅行という形で再開され、毎年の恒例行事となりました。

 

六連においても、新たな挑戦に果敢に取り組み続けた時代になりました。学生たちが自らテーマを示し、主体的に参加する形で委嘱合同曲を作り上げようという計画が1970年代末から進められ、作詞を片岡輝氏、作曲を平吉毅州氏に依頼して完成した合同曲「薄明の時から」が、1981年の定期演奏会で田中信昭氏の指揮により初演されました。その後、1985・1988年と相次いで委嘱初演合同曲を演奏し、六連だからこそ成し得る斬新で壮大なステージを実現させたといえます。

 

また、この時期には塾の記念行事が相次いで行われ、1983年の慶應義塾創立125周年記念式典、1984年の日吉キャンパス開設50年記念式典、1985年の福澤諭吉先生胸像除幕式に出演する機会を得ることができました。

 

1985年7月、楽友会の設立・発展に多大な貢献のあった指揮者・伴有雄氏(楽友会1期)が急逝されました。ウィーンで指揮者デビューを果たし、帰国後も充実した活動を続けていた中での突然の訃報でした。伴氏を悼み、同年10月日吉小講堂において、現役・OBOG合同での追悼演奏(曲目:フォーレ「レクイエム」)が行われました。

 

その後、楽友会の活躍の場は徐々に広がり、メディアからも声がかかるようになりました。1986年、テレビ朝日「ミュージックステーション」の記念すべき第1回放送に出演し、1987・1988年にはNHK「紅白歌合戦」に出演しました。国民的番組の大舞台にもひるむことなく、演奏会で鍛えたステージ度胸を存分に発揮したということができます。

 

1988年、楽友会に初の女性指揮者が誕生しました。第37回定期演奏会第2ステージにおいて女性指揮者が「フォーレ合唱曲集より」の指揮を務めました。その後も多くの女性指揮者が誕生し、楽友会の歴史の一端を担う役割を果たしました。

 

1989年1月、時代は昭和から平成へと変わり、同年11月にベルリンの壁が崩壊し、世界地図が塗り替えられる激動の1990年代へと続いて行くことになります。

 

 

1990年代で最も重要なトピックは、楽友会最大の功労者である常任指揮者の岡田先生の退任といえましょう。岡田先生は、44年にわたり慶應高校で教鞭をとられ、楽友会常任指揮者としてご指導くださいました。楽友会草創期のメンバーで後に音楽の道に進まれた諸先輩方も岡田先生の影響を大きく受けたことを振り返っています。1992年2月には、岡田先生ご退任記念パーティが帝国ホテルで盛大に行われ、出席者は300名程に及びました。1992年5月に退任され、楽友会との最後の演奏は1991年の第40回定期演奏会となりました。曲目は本邦初演となるハイドンの「ミサ曲第2番変ホ長調大オルガンミサ」でした。