1.草創と発展の時代


楽友会の創設者である岡田忠彦先生(注1)が、学制改革によって新設された慶應義塾高等学校(以降「慶應高校」)の音楽科教諭として赴任されたのは、戦後間もない1948年のことでした。時を同じくして、林光氏、峰岸壮一氏らが発起人となり、楽友会の前身である「音楽愛好会」が慶應高校に誕生し、岡田先生が指導されることになりました。このとき、作曲家の林光氏、小森昭宏氏、小林亜星氏、フルート奏者の峰岸壮一氏、チェロ奏者の伊東毅氏など、その後の音楽界を牽引することとなる名高い音楽家がこの音楽愛好会に在籍し、レコードコンサートと文化祭出演などの活動を行いました。

 

その後1950年の慶應義塾女子高等学校創立に伴い混声合唱団を結成し、ハイドンの「天地創造」全曲を演奏しました。この曲を当時の高校生だけでドイツ語で全曲演奏するというのは稀有のチャレンジだったはずです。それ以来「天地創造」が草創期を代表する曲目として楽友会の歴史に刻まれることになりました。1951年3月、音楽愛好会創設満3周年を迎え、音楽の進歩向上を目指した活動の足跡とするために機関紙「楽友」が創刊されました。

 

そして1952年6月、大学へ進んだ音楽愛好会出身者と高校の音楽愛好会会員を母体に、「慶應義塾楽友会」が設立されました。この時期に発売されて会員が繰り返し聴いたアルバムはヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のブラームス「ドイツ・レクイエム」でした。「楽友会」という名称は、このアルバムで演奏し音楽愛好会が目標にしていた「ウィーン楽友協会合唱団」と機関誌「楽友」の両方に由来する命名でした。

 

この年、楽友会としての初の演奏会(当時は「発表会」と呼称)を開催し、ハイドンの二つのオラトリオ「四季」及び「天地創造」より各2曲を演奏しています。また、この演奏会のプログラムは混声合唱、男声合唱、女声合唱で編成されており、大学と高校(慶應高校・慶應女子高校)の合同組織としてスタートした楽友会の特徴を表していたといえます。

 

その後、1958年には慶應義塾創立100周年記念式典が挙行されました。1858年に福澤諭吉先生が慶應義塾の起源となる蘭学塾を開いてから100年を迎え、天皇陛下のご臨席を仰いで盛大に行われた式典です。楽友会はワグネル・ソサィエティーと共に出演し、日吉記念館にてベートーヴェン「第九交響曲」を演奏しました。

 

このころより、楽友会に少しずつ変化が現れ始めます。1958年から高校からの進学者以外に大学からの入団者の募集が開始され、それに伴い部員の急増が始まりました。大学生と高校生が独自の活動を行うことも始まり、1961年には、大学楽友会単独で徳山への演奏旅行が実施され、この年のクリスマスには鐘紡上田工場を慰問しています。一方、1962年にはイイノホールにて第1回フェアウェルコンサートが開催され、1963年の定期演奏会では楽友会OBである若杉弘氏の指揮によるシューベルト「Es-dur」を披露。そして、そのまた翌年には青少年音楽連合、東京都合唱連盟、東京六大学混声合唱連盟(以降「六連」と呼称)に加入するなど、積極的に活動の幅を広げていきました。

 

1964年六連デビューとなる第6回六連定期演奏会では、林光作曲「ゴオルドラッシュ」を若杉弘氏の指揮により演奏しました。また、静岡(連合三田会)、名古屋(金城学院ジョイント)、大阪(関西学院エゴラドジョイント)、新宮(新宮高校賛助)を巡る演奏旅行が実施されたのもこの年でした。エゴラドとのジョイントコンサートは、その後途中7年間の中断をはさみながら1981年まで続くこととなります。

 

そして1964年12月。虎ノ門ホールでフォーレの「レクイエム」を演奏した第13回定期演奏会が、大学・高校合同の「慶應義塾楽友会」としての最後の演奏会となりました。

 

翌年の1965年、大学生は「慶應義塾大学混声合唱団楽友会」、高校生は「慶應義塾高等学校・女子高等学校楽友会」としてそれぞれの道を歩むことになり、この年から、3月に高校楽友会、12月に大学楽友会の定期演奏会を開催する、という現在のスタイルが始まったのです。

 

1960年代後半といえば、戦後四半世紀を経た世界の政治・文化が新しい秩序を模索する中、繁栄と混乱が交錯した時期でした。ベトナム戦争が泥沼化し、中国で紅衛兵が跋扈、日本では昭和元禄の退廃感の中でベ平連や東大の安田講堂攻防戦に象徴される新左翼が一種の市民権を得、フォークやグループサウンズが一世を風靡していました。1967年、米軍資金導入反対のストとバリケード封鎖、その翌年には日吉と三田のロックアウトが発生し授業も長く閉鎖されたこの時代、楽友会でもその影響で100名以上いた部員が3年後には60名に激減したものの、入団したての1年生も六連のステージに乗るなどして活発な活動が継続されました。1974年頃までには学生紛争もすっかり終息し、日吉の学生食堂には天井から「楽友会」と書いた紙が下がり、その「たまり場」に団員が集う日常が戻ってきました。1970年には、楽友会1期の伴有雄氏が定期演奏会でフォーレの「レクイエム」を指揮。さらに1973年には、東京大学柏葉会、ワグネル・ソサィエティー・オーケストラと共に伴有雄氏指揮により「第九」が演奏されました。

 

1975年、岡田先生が「後輩と交流を深めるのに役立つような曲を作ってみないか」と小林亜星氏に提案され、その年の11月、新しい曲が誕生しました。それが今も歌い継がれている「青春讃歌」です。12月、芝の郵便貯金ホールで行われた定期演奏会での演奏が初演となりました。メインステージのハイドン「パウケンメッセ」が終わったあと、小林亜星氏もステージに上がって演奏されたのです。「青春の日の夢こそが人生の全てであった」という亜星氏の思いが込められたこの曲は、学生紛争の時代を共に過ごした仲間への思いと重なり、感動のステージとなりました。

 

1976年、第25回定期演奏会で演奏されたカルダーラの「聖ヨハネ・ネポムークのための荘厳ミサ曲」は、岡田先生指揮での本邦初演となりました。この曲は、先生がレコードで聴かれて以来、楽譜を入手するために10年間も手を尽くされたのち、外務省、そしてプラハのヴァフルカ教授の好意により手元に届いたという経緯があります。ヴァフルカ教授は楽譜発見者で、現代の楽譜に書き改める大業を完成された人物で、演奏会に際しては、成功を祈るメッセージが岡田先生に寄せられました。

 

このような楽友会の発展期には、楽友会を卒団したOBOGも活発な活動を始めます。1978年にOBOGの組織である「楽友三田会」が設立され、名簿の作成、会報の発行、総会、新年会などが始まりました。また1982年3月に演奏会を開催することが決まり、1980年10月から練習をスタートしました。伴有雄氏は楽友三田会でも積極的な活動をされ、1984年の第2回演奏会まで指揮されています。

 

一方、楽友会の他団との交流は1980年代に入っても継続して行われ、関西学院大学混声合唱団「エゴラド」とのジョイントコンサートは1981年を最後に終了しましたが、同年に早稲田大学混声合唱団とともに宇都宮を訪れ初めてのジョイントコンサートを行いました。また、1980年に慶應マンドリンクラブ、1981年にワグネル・ソサィエティー・オーケストラの定期演奏会に賛助出演しました。これに続いて翌年2〜3月に、ワグネル・ソサィエティー・オーケストラが主催する海外公演が行われ、楽友会の有志メンバーが、ワグネル・ソサィエティー男声・女声合唱団および早稲田大学混声合唱団の有志メンバーとともにヨーロッパへ遠征し、ザルツブルグ祝祭大劇場で「第九」を演奏しました。

 

そして、1981年の第30回定期演奏会では、ブラームス「ドイツ・レクイエム」を岡田先生指揮、楽友三田会賛助出演という形で演奏しました。こうして楽友会草創期に当時のメンバーが大きな影響を受けて楽友会の長年の目標としてきたこの大曲をオーケストラ付きで初めて演奏することができ、いわば30年間の集大成といえる演奏会となったのです。

 

 

(注1)慶應義塾では福澤諭吉先生に限り「先生」の敬称を付けることとしていますが、本稿においては楽友会の創始者である岡田忠彦先生にもこの敬称を用いております。